Deep impression
このページでは、今までに私が大きな感動を受けた人または出来事を記していきます。


「本田 宗一郎&藤沢 武夫」
本田 宗一郎は、有名でほとんどの方がご存知ではないでしょうか。
あの車メーカーである「HONDA」の創始者です。
では、もう一方の藤沢 武夫はご存知ですか?
彼は、宗一郎にはなくてはならない存在で彼がいなければ今のHONDAは存在しなかったと言っても決して過言ではありません。
宗一郎は、技術者としては「神」と呼ばれるぐらいの技術を持った人物でした。
でも、それはあくまで技術者としてで経営的手腕はなかったようです。
それを証明するように何度か宗一郎は事業に失敗しています。
その一方藤沢は、自分の力を発揮できないでいました。
彼も事業を行っていましたが、戦争などの煽りをくい事業をたたむなど思い通りにはいっていなかったようです。
それでも彼は、自分の経営手腕には自信があったのです。
しかし、その経営手腕を振うために必要な絶対的な武器(商品)を彼は持っていませんでした。

こんな2人が出会ったのは、本田技研工業株式会社を宗一郎が設立して間もない頃でした。
宗一郎の家に知人を介して訪れた藤沢。
お互いに自分にはないモノを持っているとすぐに確信したようです。
そして、最初に動いたのは宗一郎でした。
彼は藤沢に一切の本田技研工業株式会社の経営を任せると言ったのです。
自分は製品開発に没頭するから会社を頼むと・・・。
それに藤沢も答えました。
その日から宗一郎は経営の一切を藤沢に託し、藤沢も一切の製品開発を宗一郎に託したのです。
月日が経っても一度も彼等はお互いの仕事には口を出さなかったようです。
これが世界のHONDAを創り上げる事になり、その後「技術の本田、経営の藤沢」と周りから言われるようになるのです。
お互いに自分をよく理解し、人を見る目があり何よりも決断力があったのでしょう。
「自分にその才能がないのならある奴と組めば良い。」と。
自分に置き換えた時に自分は2人のような決断を下せるのか?と考えた時、無理だと思います。
でも、いつか彼らのような人間になり、またそういう人間と出会い対等に話せるようになりたい!と私はこの逸話を聞いた時に感じ今も思い続けています。
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本田 宗一郎 (1906年11月17日 - 1991年8月5日) 享年84歳 |
| 1922 | 高等小学校卒業、東京・本郷区湯島(現在の文京区)の自動車修理工場「アート商会」(社長 榊原郁三)に入社。 |
| 1928 | アート商会に6年勤務後、のれん分けの形で浜松市に支店を設立して独立。 |
| 1937 | 自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現・東海精機株式会社)の社長に就任。 |
| 1945 | 三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。後に同社の持ち株を全て売却し退社。 |
| 1948 | 次男・勝久誕生。本田技研工業株式会社を浜松に設立。宗一郎、同社代表取締役就任。資本金100万、従業員20人でスタート。二輪車の研究をはじめる。 |
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藤沢 武夫 (1910年11月10日 - 1988年12月30日) 享年78歳 |
| 1934 | 「三ツ輪商会」という鋼材小売店に勤める。 |
| 1939 | 独立して「日本機工研究所」を設立。その後戦争の影響を受け同社をたたみ福島県に疎開する。 |
| 1949 | 8月に本田宗一郎と出会い、同年10月には製材業を引き払い上京、ホンダの常務に就任。 |